豊島区の「学校の森」事業に対しての本会議での討論内容

前回のブログで書いたように、豊島区の「学校の森」事業(区内全小中学校
に計1万本の木を植えるという計画)について、実施に当たっての見直しを
求める陳情が、2月から開会の区議会定例会に対し、学校の保護者から出されて
いました。


27日の最終日、残念ながら本会議の採決で「採択」とはなりませんでした。
*採択に賛成しなかったのは、通常の“名乗り”で言うと、
  自民党民主党公明党社民党生活者ネット、無所属(刷新の会)
 です。
 これらは今回の件以外でも「区長与党」を自称し、区長提案の議案等には
 全て賛成します(別の機会に述べますが、豊島区で進められている大規模な
 都市開発計画等にも当然賛成しています)。


私は陳情に賛成の立場から、討論を行いました。
少々長いですが、以下に討論の内容を掲載します。
*せっかくの機会ですから、後半部に少々“あそび”を入れました。
   ↓

【日野の討論】


私は、21陳情第7号「『学校の森』植樹祭・実施時期についての陳情」に対し、
子ども文教委員会においての、不採択という、合理的とは思われない結論に反対し、
採択すべきとの立場で討論を行います。
 なお、この陳情は、21陳情第6号「『学校の森』植樹祭についての陳情」と、
その求める結論は若干異なりますが、対象となる区の施策及びそれに対する陳情
の考え方は同様と言えますので、今回の私の討論では、21陳情第6号について
も、採択すべきとの立場で触れることにします。

 
 最初に申し上げておきますが、この陳情については、委員会審議を終えてからも、
賛同した方の署名が集まっており、本日現在で2つの陳情についての署名数は
第7号が135人、第6号が140人となっています。


 それでは本論に入ります。


読めば誰でもわかる通り、この2つの陳情は、植樹自体を否定するものではあり
ません。植樹というものの意義や価値は認めた上で、事業の進め方の問題点に
ついて、誰もが納得できるよう、合理的に見直すことを求めているものです。
 植樹というものを、児童・生徒や学校に関係する多くの方々にとってより意義の
あるものとするために、十分な時間をかけて広く事前のコンセンサスを得るべきと
の陳情の趣旨は、極めて合理的な考えだと私は思いますが、いかがでしょうか。


 今回の植樹については、この陳情以外にも、多くの方が様々な懸念を抱いて
います。
 先日の子ども文教委員会における審議でも、その懸念がむしろ深まったのでは
ないかと私は思います。
 まず、植樹をする場所についてです。
 委員会審議では、各学校の植樹予定場所についての“配置図”が示されました。
それを見ますと、さすがに現在運動等に活用している場所にもってくる学校はない
ようですが、その場所・空間を木で埋めつくしてしまってよいものかどうか、疑問
に思われる場所が多々あるように思います。
 現に、一部の学校では、その場所が木で覆われることによって、「不審者が身を
隠す場所になるのではないか」「木が成長した場合に、隣接する部屋が暗くなるの
ではないか」といった懸念が出されています。
 委員会審議では、このような懸念に対し、「そうなったら伐る」旨の答弁が
なされましたが、だったらやる前に懸念事項を解消するよう努めるきではない
でしょうか。
 次に、植える本数についてです。
 「全区立小中学校で、児童・生徒1人当り1本を目安」「総数1万本」とされて
いることに対し、昨年この計画が示された時から、「無理に各学校に押しつける
ことはしない」と説明されてきましたが、果たしてそうなのでしょうか。
 結果としてそうなっていないのではないか、との印象を私は受けています。
 委員会審議で出された各学校の植樹面積に「1?当り4本」の本数をかけ、
児童・生徒数を入れて比較表をつくってみました。
 小学校でみると、確かに、例えば池袋第三小学校は、児童数256人対して16本、
一人当り0.1本にも満たない数で、学校の意向・事情が勘案されたのでしょう。
しかし、全小中学校トータルで見ると、児童・生徒数の合計9,858人に対して植樹
本数9,525本・一人当り約1本となっており、一人当り本数が少ない学校の分を
どこかの学校が被ったことが容易に見てとれます。
そう考えてみて見ますと、たとえば高南小学校が一人当り3.1本、椎名町小学校が
一人当り2.0本など、数字上では、本数が少なくて済んだ学校の分の、若干厳しい
表現を用いるなら、「しわ寄せを受けた」ように見えます。
この中にも高南小学校や椎名町小学校に関係される方がいらっしゃると思いますが、
これを厚遇されていると受け取るか、しわ寄せを受けたと受け取るか、保護者の
皆様の感想を是非聞いてみたいと私は思いますが、皆様はいかがでしょうか。
 このように、本当に心からのコンセンサスを得て進められている事業なのか
どうか、私は疑問に思います。
 また、「1人1本植える」「命を大事にする」と言いながら、植える前から
「全てが成長する訳ではない」「中にはなくなる木もある」などといった矛盾した
前提を抱えているのも問題があります。
 「今回は1本1本に焦点を当てるのではなく森という総体に焦点を当てるのだ」との
ことですが、子どもの純粋な心に、そういった込み入った大人の理屈は理解できるの
でしょうか。
 私はこの点でも疑問に感じます。


 以上は、委員会審議の過程で私が抱いた疑問・懸念ですが、そもそも、この
事業計画が適切なものかどうか、そもそも論からも考えてみたいと思います。


第一に、学校の環境・設備の観点からです。
皆様もご承知のように、豊島区内の小中学校の校庭は大変狭いです。文部科学省
が示している基準面積に満たない学校も数多くあります。
私は宮城県仙台市の郊外の学校で小中学校時代を過ごしましたが、東京に来て
最初に感じたのは、「小中学校の校庭の狭さ」です。地方のご出身の方なら恐らく
同じ思いを抱かれる方が多いと思いますが、「本当に狭いなあ」
と思いました。そして、他の議員の方もおそらく同じ思いを抱かれていると思い
ますが、何とかならないだろうかと考えました。
各学校は、周りが既に住宅やオフィスなどで囲まれているので新たに拡張する
ことは難しいと言えます。
とすれば、既存のスペースの中で工夫を凝らしていくしかありません。そうすると、
まずやるべきことは、校庭を少しでも拡げるために、現在の校庭から、できるだけ
スペースを占めている部分・物体等をなくすということではないでしょうか。
近いうちに改築等がないというのであれば、校舎等の配置を変えることができない
のですから、「校庭面積を少しでも確保する」というのは喫緊の課題と言っても
よいと思います。
何を重要視するかは人によって異なりますが、以上のような観点から考えた場合、
校庭内に新たに小さくない「植樹専用スペース」を設けることは、私には優先課題
であるとは考えられません。


次に、「教育的に大きな効果があるか」という観点から考えてみます。
この事業について、「二酸化炭素削減を意識させる環境教育になる」と言われます。
 もしその面での教育的効果を期待するなら、もっとミクロレベルにおいて、植物
のもつ「二酸化炭素を吸収して酸素を排出する」という、光合成の仕組みを間近に
体験させる方が有効ではないでしょうか。若干実験室レベルに近くなるとも言えます
が、目の前にある植物が実際にそのような働きをしているという意識が、地球規模
で緑の重要性を心の底から考える契機となるでしょうし、このような発見・驚きを
小さい時分に体験することは、今叫ばれている理科教育にも結びつくはずです。
 光合成の仕組みの中で炭酸同化の過程に触れることは高校の生物につながって
いきます。また、物質の化学的変換の過程に及ぶことで、これも高校の化学の原子・
分子の話にまで発展してくる可能性もあります。また、酸素がほとんど存在
しなかったとされる原始地球の大気に酸素が生まれ、それが生命進化を加速させて
いくという点からすれば、地学にも結びつきます。
今日の教育においては、単に漠然と抽象論や感情論だけで環境教育を叫ぶのではなく、
それが知力の形成・好奇心の醸成等にどのように効果を及ぼすか、そのような具体的
なプロセスがはっきりした手法が求められているのではないでしょうか。


 私は、もし森を子どもに体験させるというのであれば、人工的な森もどきをわざわざ
都会の中につくるのでなく、地方に現にある自然を活用した方が「本物を体験できる」
という点で意義が大きいと考えます。
 先日、全国で森を活用した様々な取組みをしている人・場所のネットワークを
つくろうとの、「森の駅推進検討会」なる会合に参加してきました。
 具体的な実践例をお話いただいたのは、山口県で「森の駅」を運営している方でした
が、この森の駅では、単なる観光ではなく、森がもつ様々な資源を“実感”させること
が大きな特色だと感じました。
 森林・林業を直接担当していた元官庁の方、現在様々な官庁にお勤めの方、自治体の
方、民間企業の方、NPOの方など、20人ほどで活発に言う件交換が行われましたが、
アルコールが入ってきますと、森林の経営論・文化論・文明論などと様々な「森談義」
が交わされ、私もこのようなごった煮の議論が大好きですから、楽しい議論を体験
しました。
 改めて感じたのは、「森というものは奥が深い」ということです。
「産業の時間軸」という面から見ると、二次・三次産業に比べ、当然ながら林業
サイクルは長いですし、農業と比べても、一年サイクルで継続的に結果が出るわけ
ではないですから、これまた長いと言えます。
 また、生態系として考えた場合、当然のことながら木だけが“相手”ではありません。
他の植物やその中に棲息する動物まで考えていかないと「森全体」を考えたことには
なりません。
 「森の駅」は、このような奥深さをもった森と人間の関係を改めて考える上で、
大きな意味をもつと考えました。
 どうせ子どもに体験させるなら、中途半端なバーチャル体験ではなく、この森の駅
のような環境を体験させてはいかがでしょうか。

 
 最後に、せっかくの機会ですから申し上げておきます。
 これは、区というよりも、あるいは区長に申し上げるといった方がよいのかも
しれません。
 今回の この計画に対して、どれほどの方が賛成しているか、また、反対している
か、その割合をどうお考えでしょうか。
 まさか、学校に関わる全ての人間が賛成しているとは考えていないと思いますが、
現在認識されているよりも多くの人間が反対の気持ちを抱いているということは
少なくとも言えると私は考えます。
 今回、この計画について、多くの方のお話を伺いましたが、「反対だ」「見直しを
すべきだ」とははっきり言わないながら、「実は・・・」とか「本音を言えば・・・」
といった言い方で、反対や見直しをすべきとのお考えを述べられる方が数多くいました。
 これらの方々は、きっと賛成派に分類されているのでしょう。
 私はこのことから「実はみんな本音では賛成していない」などと言うつもりはあり
ませんし、そう考えている訳でもありません。ただ、正直な本音の意見が表に出にくい
空気や組織のあり方は問題だと感じた次第です。


 私の好きな小説に司馬遼太郎の「坂の上の雲」という作品があります。
先日久しぶりに通読したのですが、著者が描いた明治の日本を一つの共同体・組織と
見た場合、改めて感動をもって考えさせられました。
 ここで「坂の上の雲」論を語るつもりはありませんが、明治の日本の不思議な明るさ・
闊達さの背景には、組織や国家の許容範囲が、現代とは違う意味で大きかった点がある
ということがあると、私は感じました。
 もちろん、権利として保証されていた訳ではないのでしょうが、一見組織にとって
不都合と見える人間や考え方でも、とりあえず許容して受け入れ、そのエネルギーを
取り込むといった懐の深さがあったように感じられます。


 組織としてのエネルギーを得ていくには、このように異質な考え・意見が出てくる
土壌が必要だと思います。
 これに対し、組織に属する人間がトップの意向を尊重するばかりで異論が表に出にくい
組織は、問題があるのではないでしょうか。
 今回、この陳情の件でお話を伺った方のお一人の、いわば余談なのですが、組織の中で
上の人間の意向・顔色を伺っているばかりの人間は、「上ばかり見ている」という意味で、
「ヒラメ」と言うのだそうです。そして、組織の中にヒラメの数が多いのは当然ながら
問題だということです。
 私は別に、豊島区役所にヒラメが多いと言っている訳でありません。
 ただ、改めて考えてみますと、一般論として、リーダーシップの強さとヒラメの数は
比例する傾向にありがちだと思います。
 ヒラメ論を通してこのように考えました。
 付け加えて言いますと、このヒラメ論の際にもう一つ話題になったのですが、
地方自治体の重要な構成要素ある議会にも、ヒラメが多いと感じられる議会があるとの
ことです。そして、議会の多数がヒラメになってしまったら、議会の健全性は失われて
しまうだろうという点で、私も意見が一致しました。
 別にどこがどうだという具体的な話をしている訳ではありませんが。
 今回の件を通じて、組織のあり方・組織の健全性について、改めて考えた次第です。


 以上、21陳情第7号、そして、21陳情第6号について討論を行いました。
 討論を終わります。