テレビドラマ「女王の教室」から考えたこと

3月17・18日の2日間、日テレ「女王の教室」の続編を見ました(見ていない方、
ご興味のない方はすみません。天海祐希主演の小学校教師と生徒の“異色”物語)。
私の周辺でも昨年のパート1の時から話題になっていたので、一度触れてみたいと
考えていました。


実は昨年の最初の放映時、なぜか最初からこのドラマを見ており、最初の頃の
批判的意見から、最後の頃の“賛美”的意見まで、実感的にとらえていた
つもりです。(最初の頃にかなり批判していた人たちは、最後にはどうなったの
でしょうね。興味はありますが、自分で調べるほどの“意義”は見出せませんので
放っておいています)


さて、本題です。
ドラマを見て考えたことです。


ドラマの中の阿久津真矢先生(=天海祐希)は確かに素晴らしい。
でも、あんな先生は実際いないし、期待もできないでしょう。
そして、だからこそ、そのような“架空の”存在を理想とすべきではない、と
至極当たり前のことを考えました。
だいたい、もともと教師は“その程度の”存在でしかないのですから。


ドラマで阿久津先生は、「いい加減目覚めなさい」とよく言いますが、現実を
考えた場合、“いい加減”、学校に全てを任せるような“フィクション”は捨て去る
べきではないでしょうか。
もちろん、塾だって、実際は大したことのない存在です。


人間性」などという観念的なものさしでは現実把握が曖昧になるので、「大したこと
のなさ」を「学力」という最も具体的なものさしで考えてみます。 
 

私は、区議会議員になる前、小中学生相手の塾から、大学受験生相手の予備校
までを経験しました(科目は、大学受験的に言えば、現代文・小論文が主です)。


一般的には、学校(特に公立)と比べ、塾の先生は「大した」存在と言われて
いますが、そんなことはありません。
私が籍を置いた塾でこんな経験をしています。
 ①中3の「中程度のレベル」のクラスを担当していた時、ある問題の解答を
  巡って、ベテランの責任者ともめたことがありました。
  「論理的な読み方」からすれば、塾(関東圏を中心にかなりの教室を構えて
  いる“大手”の一角)の模範解答は明らかにおかしいので、私が“正しい”
  解答をつくって示し、授業前の2時間ほど、その教室の責任者(いわゆる
  業界のベテラン)のとさんざんやりあいました。
  2時間かかって、「確かに日野さんの答えの方が正しい」とまで言わせましたが、
  その後、「でもその答えまで到達する奴はいないよ」というのが彼の結論
  でした。
  しかし、実際の授業になると、25人の中5人ほどが「日野の正解」を出して
  いました。
  どちらの国語力が上か?(もちろん、いつもではありませんが)
 ②小5の「中程度のレベル」のクラスで、国語だけが非常にできる男子がいました。
  悲しいかな、他の教科がいまいちなのでそのクラスなのですが、「こいつを
  伸ばしてやろう」と思い、小6の最も難しいレベルの添削問題を受けさせました。
  調子よくやっていたのですが、あるとき、非常に悪い評価で返されてきました。
  よく見ると、“正解”がまるでなっていない。
  結論の部分と例示の部分を取り違えて答えを出していました。
  そこで、3時間ほどをかけて、この問題を出した本部の“専門家”に対し、
  「現代国語の基礎」から説いてやりました。
  やっと認めた私の正解は、その生徒が出したものとほぼ同様です。
  

別に、私や私が教えた生徒が優秀だと言うことを言いたいわけではありません。
私が言いたいのは、塾でさえこの程度なのだから、学校(特に公立)は
「推して知るべし」と考えるのが自然ではないか、ということです。


だからどうするか?
学校の先生の自主的な向上を待っている時間はない以上、現状を受け入れた上で
何らかの対策をとらねばなりません。
方向は2つだと思います。
 ①先生の能力不足を補うために、外部の力を“大いに”学校にもちこむ。
 ②先生のレベルを少しでもアップさせるため、厳しい評価システムを導入する。
  例えば、予備校で私が経験したように、生徒に何でも言わせたりする
  (アンケートのような形。予備校では、これが悪ければクビになります)。
  また、同教科の複数の先生の間で生徒の出入りを自由にすれば、下手な先生
  には生徒が集まらなくなるので、先生へのプレッシャーは大きい。


先生に対する“性善説”を捨て、現実を見据えた具体策を練っていくべきと
考えます。


ドラマの中の、「学業の教えた方も、生徒への思いやりも、親への思いも、一番」
という阿久津先生を見て、現実を以上のように考えた次第です。