「杉並・和田中の夜スペ」をどう考える?

成績が中上位層の生徒を対象に中学校でSAPIXの授業を行うという「夜スペ」の
取組み。
様々な議論がありますが、私は評価すべきと考えます。


まず、非常に合理的です。
受験で好成績をあげたいという生徒にとって、「学校では得られない知識・技術
を得たい」というニーズは非常に大きいのが現実です。
でも、定期的に塾に通うとなると、大きなネックは2つ。
授業料の負担と部活などとの両立でしょう。
この点、「学校で塾の授業を行う」のですから、場所代・設備代がかからないので
前者のネックはかなりクリアできます(実際、授業料は通常の半分ほどらしい)。
また、学校という“本業”と同じ場所なので、後者の点もクリアできる。


このように、「多くの人間に大きなニーズがありながら、充足できていない」と
いう課題を、合理的に解決していると言えるのではないでしょうか。


「金をとるのはおかしい」「学校が学力格差を助長するのは問題だ」などの批判が
あるようですが、そもそも現在の「学校の先生」でやれないことをやるのだから、
当然その分の負担は生じるのであり、負担をいかに小さくするかが課題となるはず
です(この観点では、「公立学校で一切金をとってはいけない」という人とは永遠
に議論が交わらないと思いますが)。
学力格差の問題については、逆に助長にはならないのではないでしょうか。
何もしないで放っておけば、一部少数(?)の「金のある家の生徒」だけが塾通い
をして好成績を収めることになるのですから、この「一極集中」を防ぐことになる
という点で、私は格差の助長にはならないと考えます。


もっと面白い(?)批判として、都教委から、
 「生徒が学校の教員より塾講師を信頼するようになったら問題だ」
というのがあったようですが、そもそも学校の先生の学力・授業スキルを信頼して
いないから塾に通うのであり、信頼されなくなったら信頼されるようにがんばれば
よいだけのことではないでしょうか。


そろそろ、
 「公立学校の授業さえ受けていれば、学力の修得は誰でも大丈夫」
 「学校の先生は、(学力の点でも人間としても)生徒のモデルだ」
というフィクションを、建前としても外すべき時期に来ていると思います。


もちろん、学校の先生には、人格的にも学力の面でもすばらしい方はたくさんいる
でしょうが、大部分はそのような“完全無欠”ではありません(現実問題)。
人格の点でもそうですが、学力の面で問題がある先生が多いのは周知の事実です。
私は以前、小中学生相手の塾教師や家庭教師、そしてその後は大学受験の予備校講師
(現代文が中心)をやっていましたが、大学時代に教師の資格をとろうと考えたこと
さえなかった私がたまたま教育産業に身をおくことになったのは、自分の学校時代を
通じて、「あの程度なら自分でもやれるのではないか?」と考えた教師が数多くいた
ことによります。
そして教育産業に身をおくようになって、この子ども時代の思いが“正当”なものだ
と「自信をもって」(?)考えるようになりました。
教師や教師の経験者も含め、自称「この道何年のプロ」などという人間でいい加減な
学力の人間がいかに多いことか。
これが世の中の現実であり、かなり多くの人間がこの現実に気づいています(あえて
言うまでもないことかもしれませんが)。


批判ばかりしていても仕方がないので、建設的に今後の公教育の方向性を考えて
みたいのですが、やはり、「どこまでが学校の守備範囲か?」を明確にして、
学校の先生の役割と責任をはっきり認識すべきです。
学力の面で言えば、学校の先生はやはり「基本的な学力の修得」が本分でしょうし、
現実問題としての“限界線”と言えるのではないでしょうか。