教育の課題−「教師」をどう考えるべきか?−

前回(8/18)に取り上げた教育関係著書についての書評の続きです。


著者の考えについて、私は
「教師を“性善説”的にとらえているのではないか。これは問題では
 ないか?」
と書きました。
この点、ブログに書くだけではなく、直接著者に伝えたところ、早速
次のような返信が来ました。


著者の返信の一部(この論点についての関連部分のみ)
 ↓
1.教師の質の確保について

 性善説的学校運営、かつ結果責任をきちんと負う、という道が可能
だと思います。

 私は、教育の原則は性善説でなければならないと思っています。
それは、能力が劣った生徒、素行に問題がある生徒であっても教育を
受ける権利がありますし、本当に教育を必要としているのは、その
ような生徒たちだからです。
 「どうせ自分なんか」と無気力になったり、牙をむき出したりして
いる生徒に対して、何かをなし得る根本は、その子の中にある善性や
積極性を信じられるかどうかにかかっています。
 教師たちがアメとムチで動かされている学校で、生徒には性善説
臨めというのは、偽善というものです。学校全体のモラルが信頼に
基づいてる必要があります。

 しかしながら、ほんとうに無能な教師や、暴力的な教師がいること
も事実です。
 このような教師をどう排除するかの手立てもまた必要です。
 日常の監視や給与の差をつけるなどを持ち込むことは、すでに優秀
な教師だけが伸び、肝心なダメ教師を伸ばすとができないでしょう。
全体の地盤沈下までもたらしてしまうと思います。

 私は、決め手は、教員の学校単位の採用だと思っています。欧米の
学校のほとんどは、公立学校であっても、採用は学校単位です。教員が
学校を移るときは、一つの学校を辞めて、別な学校に就職します。
 給与等の待遇は、公務員並みを維持しなくてはいけません。しかし、
雇用権は学校が持っていてよろしい。
 ダメ教員のいるダメ学校は学校として潰れるとか、ダメ教員を辞め
させるという形で、淘汰が起こるようにします。
 解雇権の乱用を防ぐため、職能組合の力と拮抗していることも大事
です。そうでないと、ゴマすり教師たちに子どもが教わることになります。

 ただ、教員の学校ごと採用は、サジ加減ひとつで、いろんな効果が現れます。
 ↑

以上です、少々長くなりましたが私の“嗜好”で上記の文章をまとめた
のでは、折角回答してくれた著者の真意が伝わらなく恐れがあると思い、
敢えてそのまま掲載させていただきました。


さて、これを踏まえてどう考えるべきか。


当たり前かもしれませんが、私は、“性善説”“性悪説”のどちらが正しい
とは言い切れないと考えました。
きっと、どちらに基づいた学校が存在してもよいのでしょう。
そして、「学校の生き残り」を決めるのは、「社会的ニーズの反映」という
意味での市場原理とでも呼ぶべきものでしょう。
社会のニーズに大きくマッチしていればその学校が生き残り、ニーズに合わ
なければ、その学校は淘汰されていく、そういう「スムーズな循環」が必要
なはずです。


しかし、その前提として、「いろいろな学校が比較的自由に設置できる」と
いう、著者が唱えるところの学校設置の大幅自由化は絶対必要です。
「学校設置の自由」を認めた上で、生徒・保護者の「選択の自由」、一旦
入った学校を自由に変えることのできる「移動の自由」(これも「選択の
自由」の一つですが)を認めれば、上記の「スムーズな循環」が進み、
結果として、それが日本の教育の活性化につながるはずです。


今回の読書とやりとりを通してこんなことを考えました。